はだえ
せんじつ読んだ本は、皮膚についてかかれていた。
まず、この区別を前提にする。
①感覚(外部からの刺激を受容)
②知覚(感覚からえた情報を中枢神経系により解釈)
これにしたがうと、耳や目は「知覚」としての聴覚・視覚をになっているといえる。
そして皮膚は「感覚」としての聴覚・視覚をもちうるらしい!
→ 根拠としては、つぎのとおり。
聴覚:インドネシアなどでは、民族楽器奏者がトランス状態になることがある。
耳で「知覚」できる音以外を、耳や皮膚から受容している可能性があるのだそう。
視覚:皮膚は日焼けをする(不可視光…紫外線への反応)。
温度も感じる(不可視光…赤外線への反応)。
ならば、可視光にだけ応答しないのは不自然だよね!という論理。
傳田光洋さんの『皮膚感覚と人間のこころ』新潮選書、です。
なぜ聴覚・視覚をひきあいにだすかというと、
「皮膚は自己と環境との境界にあたり、皮膚にこそ、わたし自身をたもつための機能が集結している」というのが、傳田さんの持論だからだ。
なるほど、じぶんの皮膚について「しわになったらやだな」「しみになったらやだな」ていどしかかんがえたことがなかったが、もっと偉大で根源的な存在なのだ。
聴覚・視覚というテーマはほんの一部で、傳田さんは「皮膚とは何者か?」という問いを、実証的にはばひろく検討している。
トマス・マンや萩原朔太郎などの引用もあり、わくわくだ。おすすめ。
※阿部公彦さんの書評がとてもわかりやすい
では、狛犬の皮膚(というより石肌かな)はどうなっているのでしょうか!
まずはテクスチャ。
これは鱗みたいで印象的だった。
えもいわれぬ色合い。狛犬のはだえは、かれらの歴史をきざみ、しみこませる美しいものです。
こういうの、もっとあつめたいんやけど、つい撮るのを忘れてしまう。
視点をひろげて、つぎは毛並へ。しっぽに注目してみるよ。
これは、ばらが咲いているみたい。
毛がそろっているところ、うねっているところ、じつにこまかい彫り。雨のつやで、いっそう色っぽい!
こちらは、かなりのボリュームだ。しなやかな柳の葉のよう。
このとき、わたしの脳内では(柳の葉みたい → 柳の枝がするする首にとりついて、乳母の背中の赤子を殺した、という怪談を思いだす → この毛並がいっそうあやしげな魅力をもってかんじられる)と展開されている。
つづきは、またこんど。ロールパン犬などをご紹介したい所存だよ。
鏡花つづきでもうしわけないが、皮膚といえばこの一文をお目にかけたい!
頭から足の先まで、とろりと白い膏(あぶら)のかかったはり切れそうな膚(はだ)なんです。
女性の肌のなまめかしいようすがありありと目に浮かぶ。
この一文をもって、皮膚への興味がうまれたんだもの。
Incubus:11 am(2001)
もっとも愛する作家は鏡花であるけど、もっとも愛するアーティストはかれらだ。